きねぶろぐ

日々感じたことをまとめていきます。

スティル・ライフ

 


 

 

第98回芥川賞受賞作。最近よく読むブロガーさんが愛読書としているとのことで、本屋で購入した。芥川賞受賞作なのに、本棚には1冊だけ。

 

読んでみると、冒頭の一節で一気に引き込まれてしまった。

この世界がきみのために存在するとは思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つ世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離を置いて並び立つ世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
 
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果が上がるだろう。星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

 この一節が最も重要。後の物語にも関連する大前提の考え方となる。

最初に読んだときは、自分が見ている世界と実際の世界は異なる。もっと世界をよく見ろというような意味と捉えられた。

だけど、この物語を読み進めていくにつれて、ここでいう自分の中にある世界とは、現実ではない自分の世界。少し人に話すのが恥ずかしくなるような、現実ではありえなそうな世界。それを外の世界と調和を合わせながら大事にすることがこの物語のテーマに感じられた。

 

チェレンコフ光

佐々井の最初の言葉

宙から降ってくる微粒子がこの水の原子核とうまく衝突すると、光が出る。それが見えないかと思って。 

そう、なるべく遠くのことを考える。星が一番遠い

佐々井が最初にバーで言った言葉。バーの中で、チェレンコフ光なんて見える確率は0に近いはずなのに、佐々井にはそれが見えているような言い方。彼の頭の中では、遠い星が爆発してその粒子が地球まで来て、目の前のコップに落ちて光るという世界がある。 

自分の頭蓋の内側が真暗な空間として見え、頭上から降ってきてそこを抜けてゆく無数の微粒子がチラチラと光を放って、それをぼくは単なる空虚でしかないはずのぼくの脳髄で知覚し、そのうちにぼくというものは世界そのものの大きさにまで拡大され、希釈され、ぼくは広大になった自分をはるか高いところから見下ろしている自分に気付いた。その静けさの彼方で、一人の男が一個のグラスを手にして、中の水をじっと見つめていた。

その言葉を受けて、主人公は自分の中に佐々井の世界に影響を受けて、自分の世界が広がっていくのを感じている。この描写から人は他人の世界からも影響を受けるかもしれないと感じた。

 

人の手が届かない領域

染色工場での出来事

結果(染められた色)は人間で見ることはできるが、染色の粒子を結合させるなんてことは人間にはできない。人間はいくつかの粒子を同じ空間においておくだけ。

「きっと、人の手が届かない領域は案外広いんだよ」と佐々井が言った。
高い棚の隅に何か小さなものが置いてある。人が下から手を伸ばして取ろうとするけど、ぎりぎりの隅の方だからそこまでは手が届かない。踏み台がない限りそれは取れない。そういう領域があるんだ

 そういう領域があるということをわかっているだけで、生きるのが楽になるかもしれない。

人間は2種類に分類されるんだ。染めあがりの微妙な違いをおもしろがるのと、腹を立てるのと。 

考えないという手もある。色と同じさ。そこは手が届かない領域だと思って、なりゆきに任せる。

 ここは冒頭の一節の調和の部分と関連しているように思える。自分の中にある世界(綺麗な染め上がりを想像している)と外の世界(微妙に違う染め上がり)の調和を保つ。つまり、外の世界で、人の手が届かない領域があることを知り、それを受け入れて、面白がれるか。それだけで生きるのが楽になる。

 

 

意味なんてない、考えない

佐々井と主人公が一緒に暮らしている中で、あるとき佐々井がたくさんの山の写真をプロジェクターに映しながらこう言った。

なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない。意味のない単なる形だから、ぼくはこういう写真を見るんだ。意味ではなく、形だけ

山の意味をそぎ落として、俯瞰して、ただ形だけを見る。そうすると、山というものが自然というものがちょっと不思議なかんじに見えてくる。

ぼくは次第にその錯覚に取り込まれ、全身が風景の中に入り込んで、地表を構成する要素の一つに自分がなったような気持になった。風景に対するカメラの位置はさまざまで、そのたびにそれを見る目は地表から高く、また低く、俯瞰し、水平に見はるかし、また仰瞰し、自裁に飛びまわった。 

 このとき、自分の中の世界が動き、外の世界と調和をはかりはじめた。

今であること、ここであること、ぼくがヒトであり、他のヒトとの連鎖の一点に自分を置いて生きていることなどは意味のない、意識の表面のかすれた模様にすぎなくなり、大事なのはその下のソリッドな部分、個性から物質へと還元された、時を越えて連綿たるゆるぎない存在の部分であるということが、その時、あざやかに見えた。ぼくは数千光年の彼方から、はとを見ている自分を鳥瞰していた。 

 そして、気がつく。自分が山の形に意味がないと感じるように、自分なんて世界からしたら、何の意味もない。世界からしたら、自分なんて遥か昔から連鎖されている物質の一部にすぎない。

 

等身大のきみと宇宙的なきみ

最後に佐々井が部屋から出て行った時に、主人公の世界にいる佐々井と話す部分がある。

一方は、昨日と同じ今日にも満足する、逃亡生活にふさわしい等身大のきみ。周囲の状況をリアルタイム正確に読み取っている動物、あの一頭だけの草食動物としてのきみだよ
 
もう一つは、ニュートリノの飛来を感知できる宇宙的なきみ。山や高原や惑星や星雲と同じディメンションの、希薄な存在。拡大されたきみ。軌道の上にいるきみだ。なぜ二つの人格なのかな?

 等身大のきみというのが、現実の世界に存在している佐々井。宇宙的なきみが、主人公の世界に存在している佐々井。人は他人にもつ印象でこの二つがあるかもしれない。現実に起こっていることをそのまま受け取った印象と、自分の世界で作り上げた印象(想像)。

 

 

もしかしたら、真理は自分の世界の中にあるかもしれない。

それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を作ったんだよ。