映画とビデオサービスの違い
最近映画館が再開したらしい
映画館が再開するニュースが流れていましたが、
この期間中は家で映画を見ることが多くありました。
AmazonPrimeで映画を見ていたのですが、
映画館で上映予定だったものを配信に切り替えるところもあるとのこと。
個人的にはやはり映画館で映画を見たいと思い、
自宅でビデオサービスを見ているときに気になったことを書こうと思います。
残り時間がわかる
家で映画を見ていたときに、残り時間を不意に確認してしまいました。
特に退屈というわけではなかったのですが、このあとの展開がどうなるか、
気になって、ついついリモコンに手が伸びてしまいました。
これって映画館にいるときに、確認しようとしたら、
前もって映画の時間を確認(後ろの映画の上映時間を見れば大体の差がわかるし、映画サイトに時間が載っている)すれば、
上映中に時計をチェックして、残り時間を予想することができます。
だいたい上映開始後はCMで15分ぐらい取られるので、そうの分も考慮して。。。(余談です)
残り時間がわかることで心に余裕ができる
途中で残り時間を見てしまった時の心情を考えてみました。
特に後ろに予定があったというわけでも、トイレに行きたかったわけでもなく、
「自分はあとこれをどれくらい見ることになるのか。」というを知りたかったのかもしれません。
もしかしたら、退屈の表れだったかもしれません。
でも、これって今どの動画配信サービスでもついている機能で、
経過中の時間位加えて、ちゃんと「残り時間」として時間を表示させているものもあります。
残り時間が表示されないサービスは何があるか
・映画
・テレビ
・ラジオ
どれも昔ながらのメディアで、これらに共通していることって、
「早送り」、「巻き戻し」、「一時停止」とかユーザー側で、再生の流れを操作できないものでした。
たしかに再生の流れを操作できないものに、「残り時間」を表示させる意味はないと思われそうですが、
「残り時間」以外の部分でも、何かユーザーに意味を与えているように思えています。
終わりが見えないことで楽しみは増えるか
映画では、「もうこれでハッピーエンドだな」と思っていても、そのあとの展開で裏切られたり、
「この先がきになるのに、もう終わり?」と鑑賞者の想像にあとはおまかせという経験がある方はいらっしゃると思います。
これって、残り時間が表示されていないことにより得られる、エンターテイメントの効果ですよね。
残り時間が表示されていたら、鑑賞者は「やっぱりね」と自分の予想通りで終わってしまう。
人を楽しめせるときは、「期待を裏切る」というのが需要なポイントだと思うので、
この視点で「残り時間がわからないこと」を活用している例だと思います。
ただし、残り時間が見えることで得られるエンターテイメントの効果もあると思うので、
終わりがわかる/わからないで、エンターテイメントが劣化するということはなさそうです。
終わりが見えないことで人は不安になる
ただ、終わりが見えないということは人を不安にさせることがあります。
これは今回のコロナ騒動がそうなのですが、
自粛期間はいつ終わるのか、誰もわからない状態で、不安になった方が多くいたと思います。
不安な状態を解消したくて、いろいろな情報を探して、正解や本当のことを書いてあるものなんて存在しないから、
さらに不安になっていく。よくない流れです。行動しているのに何も前進した気がしないというのは、人のやる気を削いでしまいます。
そんな正解が見つからないのに、なぜ人はそういった情報を探してしまうかって、
人の性質上、不安な状態を抜け出そうと行動するように作られているのではと思います。
そういった性質に従って、僕も残り時間を確認してしまったのかと。。。
終わりの見えない不安な状態を楽しむ
なので、今後どうやって過ごしたほうが楽になるかなと考えてみたところ、
映画と同じように、この終わりの見えない状態をエンターテイメントと捉えて、
楽しんで過ごしてみるのがいいかなという結論になりました。
終わりのない時間の中にある不安を受け入れて、
予期せぬ展開があることを信じてその機会を待つ。
いってしまえば自分の命の終わりも見えていない状態で、
それが普通と思って20数年生活できているので、今回のことも受け入れることはできるはずです。
要請と強制の違い
最近のコロナ情勢
最近、外出するのを自粛しないといけない難しい状況が続いていましたが、
仕事や生活によっては、外出する判断を個人する必要が出てきていると思います。
特に仕事に関しては、自分は外出したくないのに、
会社や関連会社のために、外出させられるということは往々にしてあるかと。
最終的には誰が判断するのか
上記の例だと、自分での判断は難しそうです。
仮に自分が外出しないと言い張っても、
代わりに誰かが出社させられることになる。。。
(どこからか強制されたも、自分で判断して動くということは
となると、上司?会社?自治体?国?
ここが、部署、会社、地域、国それぞれで曖昧で、
たぶんそれぞれで決めてくださいという形になっています。
こういったグレーゾーン(自分の知らない領域)には、人はなかなか立ち入りたくなくて、
さらに、判断に伴う責任は自分でとるのを避けたがる。
特に人命が関わっている場面では。
- 人に判断してもらい、自分の責任を逃れる
自分が責任を逃れるためには、人に責任をわたす。
ただ、自分と同じ立場の人に責任をわたしても、戻されてしまう、
だから、自分より立場が上の人に責任を渡して、自分に戻ってこないようにする。
- 自分で判断(考える)を放棄して、楽になりたい
人に言われたことだけ行動しておけば、考えなくてもいいし、
何かあっても自分に責任が問われることはない。
おそらく、こういう心情から国に責任をわたして、「外出禁止令」みたいなものを出してもらうように要望している人たちが多くいた。
だけど、国からは外出自粛の”要請”
よく考えてみると、そんな国から強制力のあるものが発令されたら、
今後「ライブ禁止令」みたいなものが出たときに、
国民は黙ってライブを中止しなくちゃいけなくなります。
まるで戦時中の日本みたいですね。
それがいけないよねってことで、変わったのに。
要請ということは、判断するのは国民に委ねられているということ
自粛要請を受けて、休業する会社もあれば、業務を継続する会社(せざるを得ない会社)が出てきました。
この分かれ目は、それぞれの会社の状況にもよると思いますし、国が一律に禁止したり、個別に禁止を指定するということは不可能なので、それぞれの会社の判断と責任に任せたという形になります。
おそらく”強制”してほしいと声を発している人は、❶自分の会社は休業しているのに、なぜ他の会社は自粛しないのか、❷自分は外出したくないのに、会社が許してくれないから、強制的にしてほしいの2パターンに人がいるように思えます。
❶は自分の首を絞めているだけなので、無視していればよくて、
❷に関しては、やはり自分で判断して行動するしか方法はないなと思います。
(自分も❷に近い状態があり、自分の無力さを知りました)
人に責任を渡す時の注意
自分力がない人は、今回のような判断の責任を会社や上司に渡している状態にあります。
その場合、今回の出社問題以外にも、他の部分で責任を渡していることにもなります。
今回の問題だけ責任を渡すというのは、虫が良い話。
なので、人に責任を渡すときは、自分の他の行動も制限されてしまう、というリスクを把握しておいたほうがいい。
もし3年後とかに情勢が落ち着いたときにも、一生在宅で仕事をしろという指令が出たらそれに従うしかない。(まさにサラリーマンの定め)
自分で判断、責任を持つマインドは持っておいたほうがいい
今回の騒動で、人の内面がよく見えてしまったなぁと。。。
「何でもかんでも上司に判断をもらう人」
⇨上司もこんな状況想像もしなかったのだから、一緒に考える姿勢のほうがいい気がしました。
みんなが言いにくいことを若手に言わす風潮
「それは若手が言わなきゃダメだよ。。」
実際にこんなことを言われたわけではないけど、
集団だとそういう風潮が出てくるなぁと。
今日あったのが、リモート会議で資料が反映されていないまま、話が進められて、
誰かが教えてくれないといけないんだけど、話を遮ってはいけない雰囲気。。。
でも、みんな資料は見えていなくて、他の人も見えていないな、、というのは薄々感づいている。
こう言った時の心情って
- 誰か言えよ。。
- 若手が言えよ。。
- まぁ、資料見えてなくてもいっか。。
- 大丈夫、説明の内容に支障はないから、このまま。
- 自分だけだと思うから、遮るのはやめよう
- これ、わざと変えていないだけ?
パターンごとにまとめると、こんな感じかな。
- 待ちパターン
- 気にしないパターン
- 自分だけ不幸パターン
- 真意が謎パターン
1.待ちパターンは、たぶん話入ってきていないよね。(支障あり)
2.気にしないパターンは、途中どうしても資料を見ないとわからない箇所があったら、話入ってこないよね。(支障あり)
3.自分だけ不幸パターンはもうなんか色々諦めてるっぽい。そもそも、オンラインの環境で自分だけ見えないってほぼほぼありえない。無理に自分から蔑んでいる。
4.真意が謎パターンが一番どの項目にも関連してそう。
・・・「謎」だから「待つ」
・・・「謎」だから「気にしない」
・・・「謎」だから「自分だけが不幸」と思い込む
⇨でも、心の底では、謎の状況を変えたい、。。
『謎」な状況では、なぜ動けないのか。
謎な状況って動くの難しいですよね。みんなが見ている状況だったら、なおさら。
謎な状況、自分の発言が受け入れられなかったり、間違っていたり、
そんなことが起きてしまって、晒し者になったら、心が持たない??
⇨実際にその思考に入ってしまう人って、「謎」な状況で動いたことがない人。
それくらいの痛みを受けるより、自分のモヤモヤや後悔するっていう気持ちを解消させる方が、幸福度が高いことを知ってしまった人なのかもしれない。
そんな状況で、若手や他人に言わす風潮
そんな「謎」な状況で動いたことがない人って、あまり信頼ができない。
だって、仮に二人で手を組んで行動した時に、その人は行動できず、
「待つ」、「気にしない」、「自分だけが不幸」と決めつけて、
その代償は手を組んでいる自分に火の粉が降ってきてしまう。
⇨火の粉は若手が浴びるべきだという考えのもと
みんなが言いにくいことを率先して言える若手はできる人?
周りにそういうことを言われる前に、率先して言いにくいことを言えたら、
その人はできる人と見られる。
「謎」な状況で動ける人は、たぶんその初動のアクセスの強さが強いんだと思う。
これから自分はどうしたほうがいいの
- 「謎な状況」(いつもと違う新しい行動)を受け入れて試す
困っていることを人に聞きたい人の心情
「何か困っていることある?」
最近、上司に聞かれたり、新入社員に行ってしまう言葉。
上司から聞かれるケースとしては、個別面談の最後とか、
最近は自分がメンターをやることになったので、その状況確認と行った感じ。
それぞれどんな心情が考えられるだろうか
- どんな状況なのかわからない
- 自分がどうしたらよいかわからない
- とりあえず聞いておくことでの保険
- そういうことを聞ける自分であること実感する
ただ、考えてみると、人に困っていることを聞くのは、野暮じゃないかな?
(そう簡単に答えられるもんでもないし)
とりえあず、上記4つの理由だとしたら、それは自分の状況を少しでもよくしたいためかもしれない。
自分の状況ってなんだろう?
逆に自分が聞いてしまっている場合を考えてみると、、
話題作り、状況を知りたい、何か自分に漏れがないか、という心情で聞いていたかもしれない。
たぶん不安な気持ちを解消したかったんだろう
困っていることは発信していった方がよい?
困っていることはこちら側から発信していけば、相手は幸せになれるのだろうか。
それはそれですぐに助けを求める人間に見られてしまうし、
相手の時間を奪ってしまうことになってしまう。
すぐ人の時間を奪ってしまう人は、
人に頼りっぱなしで、自分で解決できないように見えてしまう。
多分相手にも、そこまでするつもりはなかったけど、そんなに頼まれてしまったら、断りにくくなっちゃうな、、という感じで、困らせてしまう。
困っていることを聞く人は本当の困っていることを聞きたい?
困っていることって必ずしもその人の力で解決できるとは限らない。
困りごとの度合いにもよっては、人間には解決できないも問題もある。
困っていることを聞きたい人は、それを解決したくて聞いているわけで、
それに対して、解決がない/してはいけないことを答えてしまったら、
相手は迷宮の道に入ったも同然の状態になってしまう。
じゃあ、結局相手が幸せになる回答は?
- 自分である程度答えは絞っていて、参考に意見を聞きたい。
- 相手がすでに答えを知っている経験している質問
取り急ぎ思いつくのはこの2つ。問題の解決、相手に行動を求めてはいけない。
相談、雑談ベースの回答を渡してあげられれば、相手は幸福になり、不安なく過ごすことができる。
結論、相手が解決できない困りごとを回答してはいけない。
「困っていることある?」に代わる言葉は?
- 最近どう?
これもちょっと回答に困るから、引き続き言葉を探すのは必要そう。。。
世界を変革するものに共通する経験とは
最近、こちらの「残酷すぎる成功法則」という本を読んでいまして、
著者はエリック・パーカーという海外の方のようなのですが、「黄金の羽の拾い方」の橘玲さんが監訳をしている本で、科学的に証明された、成功する人の行動がまとめられています。
各箇所に研究の内容や専門家の方の言葉が引用されていて、説得力があるというか、その分内容は分厚いのです。
その中でも、今回は「世界を変革するものに共通の経験」というところを抜粋しようと思います。
世界を変革するものに共通の経験
結論:良き指導者につくこと
結論から言ってしまうと、良い指導者(メンター)につくことが、各分野の第一人者に共通する経験だという。
何らかの分野の第一人者になるには、方法は一つしかないという。それは、良き指導者につくことだ。
たしかに、勉強でもスポーツでも指導者で成績が変わるみたいなことはよく聞きます。
- テニス選手でコーチを変えてから成績が良くなった
- 野球チームで監督が変わって優勝した
- 有名な塾講師がいる塾へ行って、第一志望の大学に合格した
なぜ良き指導者につくことが、関係しているのか
指導者なんて関係ない、結局最後は自分の力でしょ。という考えもあるとは思いますが、著者は以下のように言っています。
なぜメンターはそれほど重要なのだろう?それは誰でも、すべての失敗を経験するのは不可能だからだ。他者が経験した失敗から学ぶ方が手っ取り早い。良きメンターや教師は、あなたがより迅速に学べるように手助けをしてくれる。
論理的な理由だと思いました。一人の人間の経験では、どうしても時間的限度があるので、他人の経験をもらうのが、第一人者になるには必要なことのようです。
たしかに他人の言葉(経験)を素直に受け入れる人は成長も早いように感じます。
修業が楽しいこと
加えて、指導が楽しいというのも大事なポイントらしいです。
「楽しみ」はふつう、「専心努力」や「専門的知識(技能)」、「第一人者になる」と同じ範疇には入れられない。「楽しみ」は、感情に基づくものだ。ところが、この感情的な構成要素が決定的に重要なのだ。人は、尊敬する誰かと関わると俄然やる気になる。加えてその人物が、あなたも同じことを達成できると感じさせてくれたなら、それはすばらしい成果がもたらされる。
メンタル的にも安定して、学べた方が吸収も早くて、継続もしやすいと思います。
個人的には、何か力をつけるには、継続性が不可欠だと考えていて、それにはモチベーションが必要だと思います。ただし、このモチベーションに関しては、「楽しい」という感情だけが当てはまるとは思わなくて、「何が何でもやらないといけない」という事情のようなものもある場合があります。
後者に関しては、メンタル的にはあまり安定しているイメージがないので、できれば前者がいいですね。
話が脱線しましたが、最後にこの本にも書かれていた実践の方法について、まとめます。
上司ではなく非公式のメンターを見つけなさい
会社の外でも生き方のメンターとなる人を見つけると良いと言っています。しかも、メンターは一人と決めなくても良くて、複数いた方が、その分多様性も養えるとか。
メンターに聞いてからやるのではなく、やれることは全部やってからメンターの目に留まろうとする
あなたのために特別に骨を折ろう、とメンターがおもってくれるのはどんなときだろう?それは、考えられるすべての途をためしたが、もはやメンターの助けなしには万策つきました、とあなたが証明できたときだ。自力でできる限りのことをやっている姿は、あなたの賢さと才覚、また、決して人の時間を無駄にしないであろう人間性を示している。
要するに、自分でやれることは全てやった状態でメンターと関われということ。これには人の時間を無駄にしないという考えが大前提で、対等に話すなら、それにふさわしい人間である必要があると感じられます。
メンターについて知る。いや、徹底的に調べる
メンターのことを調べるのは、喜ばせるためではない。これまで述べてきたように、その人物が自分に合っているかどうか見極めなければならない。
結局メンターを選ぶのも自分自身。そのためには相手がどのような人物なのか自分で見極めなければならない。この時点で既に間違った選択をしていたら、その後どんなにメンターの指導を仰いでも時間を無駄にしてしまうことになります。
フォローアップをする
メンターから忘れられないようにすること。忙しい人に覚えていてもらうのは至難の業だということを忘れないように。そこで心がけるべきことは、つねに関係を保ち、途切れさせないようにすることです。「印象に残る」が「煩わしくはない」という微妙な間隔でメールを送ったり、質問したりする。何かを復活させるより、途絶えさせないようにする方が簡単です。交信が途絶えないように努力するのはメンターではなく、あくまでもあなたです。
人間関係の親密度という点でも、接触回数が関係しているように、メンターとの関係でも常に途切れさせないように、自分からアプローチすることが大切。
でも、この時にちょうどよい距離感で関わらなければ、煩わしく思われてしまったりするので注意が必要そうです。
メンターに誇らしい気持ちになってもらう
メンターとあなたの目的は一致している。それは、あなたをすぐれた技能者に仕上げることだ。だが同時に、第二の目的もある。それはメンター自身を輝かせることだ。
最後に、自分が成長することで、メンター自身の幸福感へも繋がる。自分の成長のためだけに焦点を合わすのではなく、メンター自身も自分の成長によって、幸せになることを忘れずに、行動するとよいのかもしれないです。
スティル・ライフ
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第98回芥川賞受賞作。最近よく読むブロガーさんが愛読書としているとのことで、本屋で購入した。芥川賞受賞作なのに、本棚には1冊だけ。
読んでみると、冒頭の一節で一気に引き込まれてしまった。
この世界がきみのために存在するとは思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つ世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離を置いて並び立つ世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして。二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果が上がるだろう。星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。
この一節が最も重要。後の物語にも関連する大前提の考え方となる。
最初に読んだときは、自分が見ている世界と実際の世界は異なる。もっと世界をよく見ろというような意味と捉えられた。
だけど、この物語を読み進めていくにつれて、ここでいう自分の中にある世界とは、現実ではない自分の世界。少し人に話すのが恥ずかしくなるような、現実ではありえなそうな世界。それを外の世界と調和を合わせながら大事にすることがこの物語のテーマに感じられた。
チェレンコフ光
佐々井の最初の言葉
宙から降ってくる微粒子がこの水の原子核とうまく衝突すると、光が出る。それが見えないかと思って。
そう、なるべく遠くのことを考える。星が一番遠い
佐々井が最初にバーで言った言葉。バーの中で、チェレンコフ光なんて見える確率は0に近いはずなのに、佐々井にはそれが見えているような言い方。彼の頭の中では、遠い星が爆発してその粒子が地球まで来て、目の前のコップに落ちて光るという世界がある。
自分の頭蓋の内側が真暗な空間として見え、頭上から降ってきてそこを抜けてゆく無数の微粒子がチラチラと光を放って、それをぼくは単なる空虚でしかないはずのぼくの脳髄で知覚し、そのうちにぼくというものは世界そのものの大きさにまで拡大され、希釈され、ぼくは広大になった自分をはるか高いところから見下ろしている自分に気付いた。その静けさの彼方で、一人の男が一個のグラスを手にして、中の水をじっと見つめていた。
その言葉を受けて、主人公は自分の中に佐々井の世界に影響を受けて、自分の世界が広がっていくのを感じている。この描写から人は他人の世界からも影響を受けるかもしれないと感じた。
人の手が届かない領域
染色工場での出来事
結果(染められた色)は人間で見ることはできるが、染色の粒子を結合させるなんてことは人間にはできない。人間はいくつかの粒子を同じ空間においておくだけ。
「きっと、人の手が届かない領域は案外広いんだよ」と佐々井が言った。「高い棚の隅に何か小さなものが置いてある。人が下から手を伸ばして取ろうとするけど、ぎりぎりの隅の方だからそこまでは手が届かない。踏み台がない限りそれは取れない。そういう領域があるんだ」
そういう領域があるということをわかっているだけで、生きるのが楽になるかもしれない。
人間は2種類に分類されるんだ。染めあがりの微妙な違いをおもしろがるのと、腹を立てるのと。
考えないという手もある。色と同じさ。そこは手が届かない領域だと思って、なりゆきに任せる。
ここは冒頭の一節の調和の部分と関連しているように思える。自分の中にある世界(綺麗な染め上がりを想像している)と外の世界(微妙に違う染め上がり)の調和を保つ。つまり、外の世界で、人の手が届かない領域があることを知り、それを受け入れて、面白がれるか。それだけで生きるのが楽になる。
意味なんてない、考えない
佐々井と主人公が一緒に暮らしている中で、あるとき佐々井がたくさんの山の写真をプロジェクターに映しながらこう言った。
なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない。意味のない単なる形だから、ぼくはこういう写真を見るんだ。意味ではなく、形だけ
山の意味をそぎ落として、俯瞰して、ただ形だけを見る。そうすると、山というものが自然というものがちょっと不思議なかんじに見えてくる。
ぼくは次第にその錯覚に取り込まれ、全身が風景の中に入り込んで、地表を構成する要素の一つに自分がなったような気持になった。風景に対するカメラの位置はさまざまで、そのたびにそれを見る目は地表から高く、また低く、俯瞰し、水平に見はるかし、また仰瞰し、自裁に飛びまわった。
このとき、自分の中の世界が動き、外の世界と調和をはかりはじめた。
今であること、ここであること、ぼくがヒトであり、他のヒトとの連鎖の一点に自分を置いて生きていることなどは意味のない、意識の表面のかすれた模様にすぎなくなり、大事なのはその下のソリッドな部分、個性から物質へと還元された、時を越えて連綿たるゆるぎない存在の部分であるということが、その時、あざやかに見えた。ぼくは数千光年の彼方から、はとを見ている自分を鳥瞰していた。
そして、気がつく。自分が山の形に意味がないと感じるように、自分なんて世界からしたら、何の意味もない。世界からしたら、自分なんて遥か昔から連鎖されている物質の一部にすぎない。
等身大のきみと宇宙的なきみ
最後に佐々井が部屋から出て行った時に、主人公の世界にいる佐々井と話す部分がある。
一方は、昨日と同じ今日にも満足する、逃亡生活にふさわしい等身大のきみ。周囲の状況をリアルタイム正確に読み取っている動物、あの一頭だけの草食動物としてのきみだよもう一つは、ニュートリノの飛来を感知できる宇宙的なきみ。山や高原や惑星や星雲と同じディメンションの、希薄な存在。拡大されたきみ。軌道の上にいるきみだ。なぜ二つの人格なのかな?
等身大のきみというのが、現実の世界に存在している佐々井。宇宙的なきみが、主人公の世界に存在している佐々井。人は他人にもつ印象でこの二つがあるかもしれない。現実に起こっていることをそのまま受け取った印象と、自分の世界で作り上げた印象(想像)。
もしかしたら、真理は自分の世界の中にあるかもしれない。
それでも楽に生きていけるように、人はそのための現実を作ったんだよ。
マチネの終わりに
マチネの終わりに
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予告編
最初、予告編で見たときは、大人の恋愛映画というイメージで雰囲気の良さから、興味をそそられた。主演の2人(福山雅治、石田ゆり子)から醸し出される大人な感じ、パリやニューヨークの街並み、あとは何と言っても「世界のどこかで洋子さんが死んだら、僕も死ぬよ」というセリフ。。
正直、最初は雰囲気映画だと思い込み映画館へ行くことにした。
やっぱり雰囲気はよかった
予告編で見たようなパリやニューヨークの街並み、あとはクラシックギターを弾くシーン、終始物語の後ろでながれるクラシックギターの切なさや怒りの表現が、各人物の心情を表現しているようで、帰り際にサウンドトラックをダウンロードしてしまった。
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未来が過去を変える
この映画で洋子さんが槙野さんに惹かれるきっかけになった言葉。
昔の好きな思い出が、その後のある出来事によって、同じように思い返せなくなることがある。これは2人が最初に出会った時に、洋子さんが昔、家の庭で楽しく遊んでいた岩で、おばあさんが頭をぶつけて亡くなってしまったというエピソードで、槙野さんが「記憶のことを言ってるんじゃないかな」と言っていたところ。
そのあと、槙野さんが今日の演奏のことをよくないと言っていたところを、「今日のこともよかったと思える未来が来るかもしれない」と言っていた。
つまり、過去の嫌な出来事も、未来の出来事によって、良い出来事に変わるということ。洋子さんが事件に巻き込まれた時も、「今日の出来事を変える未来を作らなければならない」と言っていた。
あなたが死んだら、僕も死ぬよ
なんともすごいセリフ。
「洋子さんが世界のどこかで死んだら、僕も死ぬよ。洋子さんが自殺したら、僕も自殺する。洋子さんが自殺しようと思ったときは、同時に僕を殺すことと思ってもらいたい。」
槙野さんが洋子さんが結婚することを知っていて言ったセリフ。むしろ結婚を止めに来たと。
困惑する洋子さんに槙野さんが言ったことは、またしても「記憶」のこと。
「一度出会ってしまったら、洋子さんがいない人生は考えられない。現実ではない。この現実を生きる上では、あなたがそばにいないと意味がない。」
過去の出来事はなかったことにはできない。その出来事がなかった現実など存在しない。その出来事を受け入れるしかない。自分の感情をぶつける槙野。
この映画のテーマ
色々と出来事があったが、それをなくすことはできない。ならば、その過去の出来事が良い出来事と思えるように、未来を良いものにしていく。それがこの映画のテーマに感じられた。過去は記憶の中にしか存在しない。